種痘と洋学と松本良順

種痘はジェンナーが1796年以発見し1798年に発表したとされています。日本に伝わったのは1849(嘉衛2)年で、大阪では緒方洪庵が「除痘館」を開いています。

およそ、半世紀遅れています。

江戸では1858(安政5)年出そうですから9年も開きがあります。これは漢方医が邪魔をしたようです。

お玉が池のそばに種痘所ができましたが火事で焼けたので神田和泉町に再建し1861(文久元)年に「西洋医学所」と改称し、その2年後に「医学所」としました。三井が資金提供し、それが今の三井記念病院になっていると病院の前の看板に書かれています。

大槻俊斎が初代の総長で、大阪から緒方洪庵をよびよせ2代目総長になり、洪庵が死去すると松本良純が3代目頭取になる。

これが、日本のワクチンの黎明期のことです。松本良純は佐倉順天堂を開設した佐藤泰然の長男でしたが、佐藤泰然は2代目堂首は養子の佐藤尚中に譲り、実の息子を奥医師の松本良甫の養子にする。

松本良順は、長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴き、オランダ軍軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ。医学所頭取になり、医学所をポンペ式の授業に改め、前任者緒方洪庵の適塾式の学習に慣れた学生らと対立したとある。

大坂に出陣していた家茂の病状が悪化、持つ元良順は、常に近侍していたが家茂は死去する。

1868(慶応4)年の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。

戦後一時投獄されるが、明治期早々に西洋医学を修めた医師は少なく1869(明治2)年に赦免され、出獄後に東京の早稲田に西洋式病院の蘭疇院設立。山縣有朋などの薦めで1871(明治4)年に兵部省に出仕。

明治6年(1873年)大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。

佐藤泰然の養子である佐藤尚中の養子であった佐藤進は三代目の佐倉順天堂堂首となり、戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務め1869(明治2)年、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874(明治7)年にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。

今のお茶の水に佐藤順天堂病院を設立。明治28年(日清戦争)と明治38年(日露戦争)に軍医総監を務める。

ちなみに、佐藤進の妻・志津は山口舜海の長女であった。山口舜海が佐藤泰然の養子になり佐藤尚中となり、その養子になった佐藤進を婿養子にする。経営危機に陥っていた私立女子美術学校創設者で舎監兼幹事である横井玉子から支援を要請され2代目校長となり奔走する。

「女の子が油絵をしたいというと両親はもちろん、親類縁者総出で反対し、女がペンキ屋になるのかと」と言われる時代であった。

最初は女子美術学校に志津が携わることに批判的であった夫である佐藤進が初代理事長になり、志津が肺炎で亡くなった後に佐藤進が第3代校長に就任した。佐藤志津は女子教育の功労者として津田梅子らと共に叙勲されている。

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