芥川龍之介の「トロッコ」から連想したこと

芥川龍之介の「トロッコ」では、「小田原熱海間間に軽便鉄道敷設の工事が始まったのは良平8つの年だった」という書きだし方始まります。

1896(明治29)年には、人車鉄道という人間が押す鉄道があったそうです。乗客は「上等」「中等」「下等」に分かれていて、坂に差し掛かると下等の乗客もおりて一緒に押したそうです。

話はそれますが、下村湖人の「次郎物語」(昭和11年から連載)で、池内淳子が友達の姉をやっていた映画で、次郎の父親が馬車に乗るシーンで、町の人が士族の父親を敬うところが描かれていました。

これも余談ですが、母親が札幌出身だったので子供のころ、東北本線と青函連絡船と函館本線を乗り継いで札幌に行きましたが2等か3等で行った記憶があります。その頃は「1等」「2等」「3等」のランクでしたが、昭和35年に3等がなくなって2等級になり昭和40年代になると等級が廃止され、1等の代わりにグリーン車(昭和44年)ができたとのことです。

話を戻すと、小田原熱海間の軽便鉄道は1907(明治40)年になっての着工だそうです。

軽便鉄道」とは、線路の幅が1067ミリ未満の低規格の営業鉄軌道をいうとのです。1906年に鉄道国有方が交付されると資本家は鉄道事業に投資しなくなった。かといって地方開発に大きなお金が使えない政府は困り、1909年に「軽便鉄道補助法」が制定されると爆発的に「軽便線」が建設されていった。

そんな軽便鉄道を敷設するために土工がトロッコを押して材料などを運んでいるのを良平はトロッコに乗りたいと思っていた。あるとき、土工にお願いしてトロッコを押させてもらう。下り坂になればトロッコに乗せてもらい、上り坂になれば土工と一緒に押す。そんなことをしながら押しているうちに、だんだん暗くなってくるし、どこまで来たかもわからなくなる。

お菓子を土工からもらったりするものの不安が募る。土工が「家で心配するといけないからそろそろ帰れ」と言われて帰りだすものの、そこがどこだかもわからないので、線路を一散に駆けて駆けてようやく家にたどり着くと大きな声を上げて泣き出す。26歳になって妻子持ちになっても、ふとした瞬間に、そのことを思い出す というようなお話。

この短編を読んで思い出したのは、幼稚園年齢になる前(幼稚園にはいかなかった)だったから5歳か6歳くらいのころ。場所は品川の旗の台。そのころ、セスナが空中から宣伝ビラを散布していた。それを拾いにどこまでも追っかけて行ったら、そこがどこなのかが分からなくなった。ビラを拾ったのかも覚えていない。来た道だって覚えていない。

どうやって帰ってきたのかも覚えていないけれど、どうにかこうにか見慣れた街に戻れて事なきを得たけれど、そんなことを思い出した。別段、泣きながら帰ってきたわけでもなかったのは、夜じゃなかったからかもしれない。

軽便鉄道というと、中学校が習志野二中だった。学校の正門前に軽便鉄道の跡が残っていた。レールも引かれたままだった記憶がある。

学校から北側に行ったことがなかったので、どこに繋がっているのかは不明なのでついでに調べてみた。

日露戦争直後の明治39年(1906年)、鉄道大隊の派遣隊によって総武線津田沼駅から大久保の騎兵連隊前を経由して習志野俘虜収容所跡地に至る軽便鉄道が敷設されます。

習志野二中の前を通っていたのが、その軽便鉄道だったと思う。

習志野俘虜収容所は、千葉県千葉郡幕張町実籾字実花新田にあったという記事を見つけた。第一次世界大戦期、日独戦ドイツ兵捕虜約1,000人を収容したとあった。「実籾」というと、その昔、千葉刑務所の習志野作業所があったので、おそらくはその場所と思う。

ちなみに、習志野作業所は農場と味噌醤油を作っていたらしい。その後、習志野市は文教都市宣言をして市原に習志野市が土地を買って作業所を移転させた。それが市原刑務所になっている。

これも余談だけれど、明治40年(1907年)、鉄道大隊は鉄道連隊に昇格して津田沼の千葉工大のある場所に連隊があった。父親が、この習志野の鉄道連隊に配属されて、ビルマ(今のミャンマー)の泰緬鉄道が戦地だった。

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