袁紅氷が見た習近平《続き》

胡耀邦が失脚した時、習仲勳は胡耀邦を痛めつけることをしなかったため、政治的迫害を受けることとなり一家は1959年に追放された。

習近平は父親の影響が自分のキャリアに影響することを恐れていた。習近平が北京へ来るとよく会ったのが胡耀邦の長男胡徳平で、その縁で袁紅氷が習近平との飲み仲間になる。

酒を飲みながら話したことの一つに、当時の知識人は中国の人口の増加速度が経済発展の速度を上回っていることが経済成長を阻害するだろうという見解に対し習近平は「世界を中国共産党が管理するためには40億人が必要だ」といった。

もう一つの話題として白恩培と一緒に習近平と酒を飲んだ時に、白恩培が「朝鮮戦争の時に共産党の第九兵団15万人が防寒服もなく零下20度の戦地に派遣され兵団の3分の2が凍死・凍傷になった。これは毛沢東が責任を負うべき失敗だ」と言ったところ習近平は激怒して「英雄的行為を侮辱した」「これは巨大な戦略的な勝利であり犠牲は必須だった」といい二人は殴り合いのけんかになった。

2016年6月16日に安陽市人民検察院より2000年から2013年の期間の2.46億元(2016年10月の為替レートで約37億円)にのぼる賄賂収受の罪で訴追された。2016年10月9日に河南省の安陽市中級人民法院で罪状認定され、執行猶予付きの死刑、終身監禁の判決を受ける

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白恩培が後に贈賄で執行猶予付きの死刑、終身監禁の判決になったのは、この時のことが関係していると考えている。

習近平にとっては、どれだけ多くの犠牲が出ても、それは彼にとっては重要なことではない。重要なことは独裁者として望む政治理想や軍事的達成が重要なことなのである。

1957年に毛沢東は国際共産主義指導者会議でアメリカと核戦争をすることを提案した。ソ連が核兵器を出し、中共が200個師団を出す。その結果、中国6億人が3億人になり、世界の27億人が半分の13億人になっても共産主義が勝利すれば価値があることだと主張した。

毛沢東を倣っている習近平が、どのように指導し、どのように決断するかの着眼点が示されている。

習近平が袁紅氷と飲み友達だったころ、中国は鄧小平の時代だった。習近平は改革開放は毛沢東路線から逸脱していると考えていた。当時の役人や企業の腐敗は修正主義の結果だと考えていた。

鄧小平は胡耀邦を粛正した。ある時、習近平が袁紅氷を通じて鄧小平の長男である鄧撲方に会ったことがある。その時、「鄧小平の一連の戦略はまだ有用であり、中国経済がまだ発展する可能性がある」と言っていた。しかし、同時に習近平は鄧小平の修正主義は「経済的発展」と同時に「政治的な危機」に陥るとも話していた。

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