ネット民度の話

ドワンゴの川上という人の説では「日本では最下層(経済的だけではなく道徳的にも)の人間でもパソコンやスマホが持ててネットに接続できる」から、他の国ではネットにぶら下がれないような下等な人たちも、みんなネットにぶら下がって読むに堪えない罵詈雑言、誹謗中傷を書きまくっていることになってしまったとのこと。

この意見で、どれくらい海外のことを知ったうえでいっているのかになるけれど、海外事情をある程度知っている人からしても、日本のネット書込みには、品性下劣な表記が少なくないことは事実のようです。

貧しい国の下層社会の人々は、品性が下劣かは別として識字率が低いことに比べて、日本の下劣な人々も識字率は高いことをあげることができる。

それが罵詈雑言・誹謗中傷となるのは、「限度」というブレーキが利かなくなっているわけで、ではなぜ、ブレーキが利かなくなっているかというと、「邪悪」さがブレーキを緩めているわけです。

この「邪悪」さは、どこから宿るかということですが、マーク・トウェインの「不思議な少年」には、この世に存在しているのは一片の「思惟」だけということに尽きます。

神が本当に存在するなら、何で邪悪な心を人間に与えたのか? 天国を作っておきながら地獄を使ったのか? 幸福な人生だけを作ればいいのに、こんなに不幸な人生がいるのか?

頼みもしないのに人間を作り、その中に少なからず品性下劣な人間がいるのなら、その責任を神が取らずに人間に押し付けて自分は責任を取らずに、その上礼拝を強要するのはどういうことだ!

つまり、結論は、この世に神などは存在せず、存在するのは「思惟」だけで「神」も「悪魔」も、その思惟の中でだけ存在している。境遇や環境や置かれた立場や家族関係や友達関係や様々な状況の中から形成された「思惟」が、自己を通じて行う言動の結果でしかなく、「邪悪」とする判断は誰がするのかというと神が存在しないのなら結局は自己の「思惟」でなければ、他者の「思惟」でしかないわけです。

つまりは品性下劣な人間にスマホやパソコンを持たさなければ、少なくともネットには罵詈雑言・誹謗中傷は減少するけれど、人間社会においての邪悪の総量が変わるわけではないということになります。

煽り運転すれば、ほぼ映像に記録されてたいほされるのに、いまだに煽り運転をする人がいます。話しても分からない人は一定数いるということで、SNSやブログのような公衆に文書や画像・映像を公開する前提として本人確認が不可欠なサービスにしていくことで、邪悪度はいささかでも軽減できるように思います。

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