観念と摂理

何日か前に「少年時代」から連想したこととしてマーク・トウェインの「不思議な少年」について触れたことを書きました。マーク・トウェインがいうには、この世のすべてのことは自己の「思惟」によるものだという結末になります。

一般的には「しい」と読むけれど、今昔物語や太平記などの時代には「しゆい」と発音したようなことが書かれています。哲学では「感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用をいう」とあり、仏語では親鸞が「思惟を正受と対応させ、正受は他力の信力、思惟を方便と解する」となると、かなり難しくなってきます。

マーク・トウェインは英語で書いたのだろうからと思って調べると「thinking」とか「speculation、cerebrate、cogitate、study、consider」などがでてくるけれど、使い分けのニュアンスまでは分かりません。

まさにマーク・トウェインがいう「思惟」とは、「感覚、知覚以外の認識作用」のことで、認知の反応として思索が生み出しているわけです。そのことは神や悪魔に限らず、この地球も宇宙も、はたまた分子だの量子だのも似たような物といえます。

それでも地球は回っている」と言った人がいるそうですが、我が思惟によると、地球は固定されていて、雲が流れるように月や他の天体が動いていますが、地球が動いているとは思えません。小学校の時の写真などがたまに出てくると、ずっと過去のことなどは「観念」となっており、どこまでが事実であったかは不明です。記憶も編集されるようで、旧友とその時代の話をすると双方の記憶に違いがあることや片方が忘却していることなど珍しくはありません。

現実とは直近過去から直近未来までのことで、それ以外は「観念」としての事実でしかありません。当然のことですが眠っている間には宇宙も地球も存在していません。だから、マーク・トウェインが言うように、この世は全て「思惟」が作り出しているわけで、自分すらも一片の思惟でしかないことは摂理的事実のように思います。

そういえば、宇宙物理学の野村泰紀さんが「マルチバース宇宙論入門」で書いていたと思うのです。それは、宇宙は無数にあるという話です。我々が存在している宇宙は光速で膨張しているので、宇宙の果てに行くことは不可能なことになります。この宇宙に知的生命体が地球にしかいないとして、すべての人間が消滅したら、宇宙を含めて「存在」にすら意味がなくなるわけです。

摂理」の意味は「観念」においてこそなのだと言い切れる所以です。

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